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小さな発見者
 静かな廊下に食器のぶつかり合う音だけが響く。
 手にしたトレーに乗せられた食器をなるべく傾けないように気をつけながら、ノボロは廊下を歩いていた。
「絶対にあの方の邪魔をしてはいけませんよ」
 トレーを渡された際にヨメナから言われた言葉が頭を過ぎる。
 目的の部屋の前にたどり着き、ドアの横に一旦トレーを置くと、ノボロは小さく深呼吸をした。
 丁寧にコンコン、とドアをノックする。返事はない。
「……お父様?」
 少し躊躇われたが、そっとドアを開いてみる。
 埃と薬品の臭いが混ざったような空気の漂うその部屋は薄暗く、中はよく見えない。
「お父様、お食事をお持ちしました」
 やはり返事はない。それに、部屋の電気がついていないところを見ると、この部屋の主は寝ているようだった。
「では、こちらに置いておきますね」
 誰に向けてでもなく断りを入れ、トレーを持ち上げるとそっと部屋に踏み込む。
 女中曰く”魔窟“と称されるこの部屋は、何度入っても緊張してしまう。
 床には何だか分からないものが散乱し、本がうず高く積み上がっている。
 女中が片づけたくて仕方がないと言っていたが、許しが出ないのだそうだ。
 入口の横に置かれたサイドテーブルを見て、ノボロは小さく溜息をついた。
「また……手つかずのままですね」
 テーブルの上には、数時間前に同じようにノボロが運んできた食事が置かれている。
 しかし、それは全く触れられた形跡がない。
 それを運んできた時も同じことをぼやいたような…そんなことを考えながらテーブルに近づこうと一歩踏み出したその時だった。
 足下に何かが当たるような感触と共に身体が傾き、食器が音を立てる。
 しまったと思った瞬間、身体がぐいと後ろに引っ張られた。
「お静かに。我が主は仮眠中でございます」
 背に柔らかい感触を感じて見上げると、ハクリューと目が合った。
 彼は丁寧にノボロの体勢を立て直させると、窓際の方へと目をやる。
「すみません、私の不注意です」
「存じております」
 ハクリューはそう淡々と述べると、テーブルに置かれていた食器を持ち上げる。
 空いたテーブルに今し方運んできた食事を置くと、ノボロも窓際……正確にはその手前の方に置かれたソファに目をやった。
「キール、今回のお父様の研究は長引いているのですか?」
 ハクリュー――キールは持ち上げた食器を静かに下ろしながら頷いた。
「あのように苦悩している我が主は初めて目にしました」
「そうですか……」
 今度は躓かないように、慎重に踏み出す。なるべく足音を立てぬように、そっとソファを横切る。
 この部屋に籠もって何日目になるか分からない部屋の主は夢の中でも悩んでいるのか、難しそうな表情を浮かべながら眠っている。
 普段の彼なら三日三晩ほどほとんど食事も睡眠もとらずに研究成果をまとめあげるのだが、こうして研究の途中で睡眠をとっているのは珍しかった。
 最も、本来そうするべきであって、普段の彼のやり方は褒められたものではないのだが。
 それでもノボロもヨメナも、彼のその熱心さに尊敬の念を抱いていることは間違いなかった。
「お父様に解けぬ理論が私に解けるとは思いませんが……」
 窓際に置かれた机の上には、様々な資料と何度も訂正された跡のある紙が散らばっている。
 その幾つかを手に取り、ノボロは小さく息を吐いた。
「もし、私がこの理論を解くことができたなら、お父様は喜んでくださるのでしょうか」
 キールはナルトにかけられたブランケットをかけ直しながら、僅かに首を傾げただけだった。
 彼に解けない理論が自分に解けるはずがない。そんなことは分かっている。
 けれど、違う視点を持つ者の意見が少しでも彼の閃きのきっかけとなるならば。
 そう願いながら、ノボロは資料に手を伸ばした。

 ◇

「おはようございます、我が主」
「……おはようございます」
 重い身体をソファから起こしながら、ナルトは深く溜息をついた。
 その様子にキールが僅かに首を傾げる。
 キールのこの行動は、彼自身の表情がほとんど変わらないために分かりづらいが、彼なりの不安を表す仕草なのだ。
「キール、ワタシはどれほど眠っていましたか?」
「半日ほどです」
「そうですか……一刻も早く論をまとめてしまわねばならないという時に……」
「睡眠も大事であることには違いありません。身体を壊してしまわれては元も子もございませんよ、我が主」
 ナルトはキールの言葉に僅かに眉を顰める。
 しかし、それ以上は何も言わず、再び研究の続きに戻るために机に向かおうとした。
 そこで先客がいることに気づく。
「キール、この部屋に他の者を入れるなと言いましたよね?」
「申し訳ございません。しかし……」
 言葉を濁すキールに、ナルトは不愉快そうな表情を浮かべる。
 唐突に響いたノック音で、ナルトの表情は更に不機嫌さを増した。
「ナルト様、お食事をお持ちしました」
 丁寧な仕草でドアを開け、ヨメナが顔を覗かせる。
 睨むナルトの視線には怯まずに、ヨメナはにっこりと笑って見せた。
「もしかして、お目覚めになったところでしたか? 丁度良かったです、たまにはきちんとお食べにならないと身体が持ちませんわ」
 テキパキと、先刻ノボロがそうしたのと同じようにトレーをテーブルに置く。
 どこか楽しそうなヨメナに、ナルトは再び深く溜息をついた。
「……ヨメナ」
「はい、何でしょうか?」
「これはどういうことなのか、説明していただけませんか」
 ナルトの示す方を見たヨメナは目を丸くする。
 ナルトの机にもたれかかったまま眠っているノボロの手にはペンが握られていた。
「まあ、どうも戻ってこないと思ったら…。すみません、ノボロは後できつく叱っておきますので」
 慌てて机に近づこうとしたヨメナは、蹴躓いてキールに支えられる。
 その様子に本日何度目か分からない溜息をつきながら、ナルトはノボロの肩を揺すった。
「ほら、起きなさい」
「……おとう、さま?」
 目を覚ましたノボロはナルトを見上げながら何度か瞬きを繰り返す。
 そこでようやく自分の行動を思い出したのか、慌てて立ち上がった。
「わ、私は…お父様にお食事を届けにきて、お父様の研究内容が気になって……それで……」
「言い訳は良いです。よくもまあ、貴重な時間を邪魔してくれましたね」
「申し訳ございません、お父様……」
 しゅんとするノボロを押しのけ、机の上の紙束を目にしたナルトの動きが止まった。
 紙束を持ち上げながらノボロに問う。
「……ノボロ、これは?」
「その、違う視点からの見解があれば、何かお父様の閃きのヒントになると思いまして……」
「何を馬鹿なことを言っておりますの? あれほどナルト様の邪魔をしないように言いつけておりましたのに!」
 ノボロの腕をヨメナが引く。しかし、それを制止したのはナルトだった。
「お待ちなさい。途中で途切れているように見えますが?」
「そこで眠気に負けてしまって……」
「そうですか。では、続きをやってみなさい」
 予想外の言葉にノボロとヨメナは顔を見合わせる。
「聞こえなかったのですか? 必要な資料があればワタシが用意します。やってみなさい」
「………はいっ!」
 ノボロの表情が一気に明るいものに変わった。

// [2012.01.07]