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兄と弟
 初めてこの家に連れてこられた時のことはよく覚えている。
 奇怪なものを見るような大人たちの視線に、子供ながらに自分が邪魔な存在であることを悟った。
 細かいことは幼い自分には理解する術もなかったが、突然連れてこられた何も知らない家の跡を継げなど、何と身勝手な話なのだろう。
 それでもそうすることでしか自分の居場所を作ることができないのなら、そうするしかないではないか。
 そう信じながら家を継ぐための厳しい特訓にも耐えてきた。

 そう、彼が生まれるまでは。

 ◇

「ずっと跡継ぎ候補はキダチ様だという話だったじゃないですか…それを今更すげ替えるなど……」
「そうは言っても、やはりここは正妻の子であるルリカ様が跡を継ぐのが自然だろう」
「確かにキダチ様も優秀だし、能力的には申し分ないんですけどね……」
 ひそひそと使用人たちが聞き飽きた話題を口にするのが聞こえる。
 この年にもなると、何となく家庭の事情も読めてくるというもの。次に出る言葉も読めている。
「……“でも彼は妾の子だから”………」
 聞き飽きた言葉を小さく復唱すると、キダチは溜息をついた。
 この家の現当主である父と本妻との間で男児が生まれず、妾の子である自分が跡を継ぐためにここに連れてこられたはずだった。
 しかし、ここ数年で事情は全く変わってしまったのだ。それもこれも、全ては自分の前を歩く彼のせいで。
「全く、酷い話ですよね」
 彼──ルリカはやれやれと言わんばかりに手を上げながら深く溜息をついた。
 自分と同じ色をした碧色の眼がこちらを見る。
「勝手な理由でお兄様を連れてきておきながら、今度は邪魔者扱い。全く酷い話です。これだから大人は」
「口が過ぎますよ、ルリカ」
 キダチの言葉に、ルリカは少しむっとする。
「僕は本当のことを言っているだけですよ。僕はどうせ争うならば本妻の子とか妾の子とか関係なく、きちんと実力で見てほしいだけ」
「そうは言っても、家の跡を継ぐことにおいて血筋が重んじられるのは自然なことです。ルリカはそれが分かっていない」
「分かるわけがない」
 ルリカはぷいと顔を背けると、つかつかと歩きだす。
 彼が一体何に腹を立てているのかは分からない。
 彼とはそれなりに長い間共にいるが、未だに心中を読むことができずにいた。慌てて彼の後を追う。
 しばらく無言で歩き続け、部屋の前まできてようやく彼は振り向いた。
「僕はお兄様と違ってずっと蝶よ花よと育てられたので、お兄様がどのような想いを抱いているのかは分かりません」
 再び碧色の眼がこちらを見る。父親似の碧色の眼に母親似の深緑色の髪という容姿の彼。
 その容姿を何度羨ましいと思ったことか、そんな想いも彼は全く知らないのだろう。
「でも、僕はお兄様が大好きなんですよ」
 ルリカの手がキダチの髪に触れる。
「僕やお父様と同じ色の眼……そしてこの優しい色の髪。きっとお兄様のお母様も同じような色をしていたのでしょうね」
「……そうなんでしょうか」
「お兄様はお母様の顔も覚えていないのですか?」
「生憎、ほとんど覚えていません」
「ますます酷い話だね」
「酷くなんてありませんよ。この家には母様の居場所はないのです。そして私も同じです」
「それがお兄様の本心ですか?」
 ルリカの顔がずいと近づく。つい感情に任せて余計なことを口走ってしまった、そう思った時にはもう遅い。
 目と鼻の先で細められる碧色の眼にぞくりとしたものが背筋を走り抜ける。
「お兄様はどんなに辛くても、僕には何も教えてくれないんだもの。僕だけじゃない、家の人はみんなお兄様のことを文句を言わない都合のいい道具くらいにしか思っていない。お兄様にだって色んな想いがあるのに」
 そこまで一気に言うと、ルリカはふうと息を吐きながらキダチの肩に両腕を回しもたれ掛かった。
 彼の吐息を首筋に感じる。流れる沈黙が気持ち悪い。
「でも安心してくださいね、お兄様」
「……ルリカ?」
 急にルリカの声のトーンが変わる。彼の考えが読めないことはいつものことだが、今日はいつもとは違う。
 いつもの彼は読めないことこそが彼らしさであり、だからこそ放っておけないのだと使用人が言っていたのを耳にしたこともある。
 しかし、今は気味の悪さしか感じられない。
 言うなればそう、本能が危険だと告げている。そんな得体の知れない気味の悪さ。
「例え僕が跡を継いだとしても、お兄様を一番側に置いてあげる。誰にもお兄様を邪魔者扱いなんてさせない。お兄様が居場所がないなんて言うのなら、僕が作ってあげますよ」
 思わずごくりと唾を飲む。彼の口にした言葉は酷く気味が悪く、心地の良いものに思えた。
 その言葉に縋りそうになるが、理性がそれを押し留める。
 彼は何も知らないからそんなことが言えるのだ。そう自分に言い聞かせて。
「ルリカは……私のことを邪魔だと思ったことはないのですか?」
「何故?」
「皆が言っている。貴方も何度も聞いたはずです」
「それってお兄様が妾の子だって話のことですか?」
「この家にとって私はただ家の品位を落とすだけの存在…貴方が産まれたことで貴方の代わりであった私は用済みという訳ですよ」
「そんなの……関係ないよ」
 キダチを抱き締めるルリカの腕に力がこもる。
「誰の子だろうがお兄様は僕のお兄様だもの。だから、自分のことをそんな風に言わないで……」
 泣き入るような声にはっとさせられる。
 彼さえ産まれなければこの家に居場所を作ることができたかもしれないのに、何度そう思ったことか。
 本当に邪魔なのは自分だということは分かっている。分かっていたことではないか。
 なのに何故全ての人から祝福され、ここに在るべくして在るはずの彼が泣くのだろう。
 少しでも彼に恨み言を吐いた自分がただ惨めに思えた。
「……少し言葉が過ぎたようですね。すみません」
「お兄様、一つだけ覚えておいてくださいね。例え誰が何を言おうと僕にはお兄様が必要なんです」
「ええ……ありがとう、ルリカ」
 ぱっとルリカの身体が離れる。きょとんとした表情でキダチを見るルリカに、キダチも釣られるように首を傾げる。
 何かまた妙なことを言ってしまったのだろうか。今日はどうも口が過ぎる。
 そんなキダチの心配をよそに、ルリカは満面の笑みを浮かべた。
「ご、ごめんなさい…お兄様にそんな風に言われたのって初めてで少し驚いちゃって」
「……そうでしたっけ?」
「何だか初めてお兄様に頼りにされたみたいで嬉しいなあ!」
 再びルリカがキダチに抱きついてくる。
 今度は勢いがついているため、思わず数歩よろけたところで何とか踏みとどまった。
「えへへっ、大好きですよ、お兄様!」
「はい、私もですよ」
 ルリカの頭を撫でながら言う。それは決して口で合わせたものではなく、本心から出た言葉だった。

// [2012.02.01]